老朽化した旅館「二葉楼」再生案件!町おこしをかけたウェディング
- Category : プロジェクトストーリー
- 2020.11.16
こんにちは。
株式会社Daiyuの山中です。
今回のブログは、Daiyuに自社会場「萬屋本店」が出来る前、ウェディングプロデュース事業のみを行っていた時のエピソードをご紹介させていただきます。
今でこそ「Daiyu」は「鎌倉の会社」というイメージが定着していますが、
実は鎌倉という地に根を張るようになったのは7年前。
それ以前は、東京都、神奈川県、埼玉県にある
料亭、古民家レストラン、旅館で
ウェディングのプロデュースを行っていました。
つまり、社員たちが各担当会場に分かれ、
それぞれに奮闘していた激動の時代。
更にプロデュースといってもウェディングのお客様が自然に増えるわけではなく、それぞれの会場の集客面、サービス面、企画等の「コンサルティング」も兼ねた内容を行わなければならない状態でした。
今回はその中の一つ、
埼玉県 小川町にある「二葉楼」のエピソードを
当時の担当者 阿部にインタビューをしました。
《プランナー 阿部 × 採用担当 山中》
-「こんなところに人がくるの!?」
辺鄙な場所に愕然としました。-
山中)―
阿部ちゃんはDaiyuに中途で入社して、
初めて担当することになった会場が二葉楼。
面接を受けに行ったのが二葉楼だと聞いていますが、
最初はどういう印象でしたか?
阿部)―
私はもともと埼玉県出身なんですけど、
この二葉楼がある「小川町」ってすごく辺鄙な場所にあるんです。
1時間に1本、車両は2両しかないローカル線の最終駅。
昔ながらのお酒や和紙作りが有名な地ではあったので遠足で行ったことがあったのですが、
幼心にも全く観光客がいないなと思っていました。
つまり、ウェディング事業を行う上で、
立地としてはかなり難しい場所。
駅前の商店街もさびれたシャッター街で、
当然若者離れも加速しているような町でした。
20代前半だった当時の私は
「え?こんなところに結婚式挙げにくる人いるの…?」
と不安に思ったのが本音です。
後から聞いた話ですが、
当時この案件を引き受けた宮腰さんも、
周囲の方や業界の方から
「そんな難しい案件を引き受けるのか。やれて、せいぜい年間10組だろう」と言われていたみたいです。
山中)―
えー!よく入社を決意しましたね!
阿部)―
実は…「二葉楼」の雰囲気にはすごく魅了されたんです。
築360年の歴史がある旅館の二葉楼は、そこだけなんだか異空間みたいでした。
古い建物に、赤い絨毯が敷かれた内観。
タイムスリップしてしまったかのような雰囲気がすごかった。
もちろん通勤は大変だと思いましたが、
それ以上にやってみたい!とワクワクしました。
あとは、この時初めて会った宮腰さんとの出会いに感銘を受け、「絶対にこの人のもとで働きたい!」と思った直感を信じました。
《木造二階建て、数寄屋造りの割烹旅館 二葉楼》
《昭和8年建築の本館は、国の登録有形文化財に指定されている》
《江戸時代の富裕層に普及されていた緋毛氈(赤い絨毯)が敷かれた内観》
-あり得ない目標を本気で掲げる上司との出会い-
山中)―
入った直後にはどんなことがありましたか?
阿部)―
今でも鮮明に覚えていることがあります。
それは現在Daiyuで取締役を務める鈴木さんとの出会いでした。
鈴木さんも当時Daiyuに転職してきたばかりの20代後半。
二葉楼のマネージャーを当時の鈴木さんが務めていたのですが、ミーティングをした時、
「この二葉楼を日本の地域再生の希望の光にしたいんだ!そのためには、二葉楼を埼玉県No.1の会場にする!」
って言いだしたんです。
正直「こんなさびれた町で、そんなこと無理だ」
って思いました。
スタッフは鈴木さんと、もう一人の上司の水間恵子さん(現萬屋本店GM)、そして私の三人しかいない。
会場の周りは廃れた商店街で、
どう考えてもここに人が集まる想像が出来なかった。
予算もないのに、婚礼50組なんて夢物語だと思いました。
それでも、鈴木さんは毎日それを言い続けるんです。
次の日には事務所に筆で書いた目標を貼り出して、
しまいには会場のエレベーターの中にまで貼っていた。
会場の女中さんたちみんなにも
「二葉楼が地域再生の希望の光なんだ!」
って唱えているんです。
そうなると、もう「出来ない」なんて言っている暇はなくて、とにかく何かやらなくちゃ!そんな風に気持ちが変わっていきました。
《当時エレベーターに貼っていた目標》
-予算がない。アナログ戦法で人の心を動かす-
山中)―
そんな状態から一体どうやってお客様を集めたんですか?
阿部)―
大きな目標を掲げていても、大々的に広告を出せるような予算は持ち合わせていません。
だからこそ、最初はとにかく泥臭く、
小さなことを何でもやりました。
一番初めはチラシを作って自分達で周辺の住宅街にポスティング。
鈴木さん自身もバイクでチラシを配りにいって、
私も先輩と一緒にマンションの階段を何回も上り下りしました(笑)
そうすると意外にも、このチラシというアナログな戦法がヒットしたんです。
若者のいない街だからこそ、
その親御様世代がチラシを取っておいてくれた。
娘さんや息子さんが帰省したタイミングでチラシを見せてくれることがきっかけとなり、
何組かお問い合わせが来るようになりました。
山中)―
地道な努力の甲斐があったんですね!
阿部)―
そうなんです!
他にも本当に様々な工夫をしました!
新聞屋さんにお願いして、無料で折り込みチラシを入れてもらったり、周辺の駅に一駅ずつ降りて、チラシを置かせてもらえないか交渉したり。
そうするうちに、何組かずつご結婚式を実際に挙げていただけるようになっていきました。
そのお客様が病院や塾で働かれている方もいらっしゃったので、そこからまたポスターを貼っていただいたなんてことも。
また、ゴールデンウィークには自分達で作った広告を駅の掲示板に貼りに行ったり、地域の七夕まつりの時期にはお店でドリンクを配って館内を案内しました。
他にも、新郎新婦様が中学校と小学校の先生同士という方がいらっしゃったので、教え子の皆さんを無料で招待して先生たちの結婚式を見せてあげられる企画「Teacher’s Wedding」を立ち上げました。
その時は埼玉県の小中学校にFaxを送り、一校一校お電話もしました。
当時は予算がなくて雑誌に広告を出せず、
今ほどインターネットで宣伝することも出来なかったので、本当に知恵を絞るしかありませんでした。
《一番左が当時のポスター。おふたりの想いを、カタチにする人、ここにいます。》
《大切な教え子を無料でご招待し、先生の晴れ姿を見せるTeacher’s Wedding企画》
《七夕祭りにあわせて会場をビアホールに》
-テーマ、間合い、拘りを詰め込んだウェディング!-
山中)―
結婚式会場の口コミサイトに2013年当時の二葉楼への投稿も残っていたので見てみました。
そこには、お客様から
「スタッフの心意気に惚れてしまった」
「とにかくスタッフの皆さんがあたたかく、ここで挙げて良かった!」
「参列してくれた方が、今まで行った結婚式の中で一番良かった!と言ってくれた」
といったコメントが多数残されていました。
どんなウェディングを行っていたのですか?
阿部)―
その時結婚式に携わらせてもらったお客様のことは今でも鮮明に思い出せます。
当時は、お客様がここに興味を持ってくださることがとにかく嬉しく、私たちが結婚式をお手伝いできると決まった際には、絶対に最高の結婚式をお届けしたいと思っていました。
お客様ごとにBGMや司会者の台本、
演出にも拘りました。
音楽のどのタイミングで扉をあけるのか、
司会者はどんな声のトーンで話すのか。
毎回セッションし、リハーサルし、
とにかく自分たちの知恵を絞って、来てくださったお客様の記憶に残るシーンを創りたいと奮闘していました。
実は今、萬屋本店でお客様にご案内している
「祝言」「三礼の儀」「車夫の口上」は、この時に思考錯誤しながら生み出したものがベースになっています。
《屏風前で行う車夫の口上》
結婚式を所謂パッケージ売りにするのではなく、
お一人お一人の人生背景に沿って、
その方たちに合った進行内容やご提案をしたこと。
このことがお客様とも強い信頼関係に繋がったと思います。
《流しのテーブルで圧巻の会場》
《桜を吊るした会場装花》
《クリスマスの時のしつらえ》
《和太鼓の演出開発》
また、すごく嬉しかったエピソードがあります。
それは鈴木さんが担当したお客様のお兄様の結婚式を、
私が担当させていただけたことです。
親族として参列した際、
拘りのつまった内容に感動してくださったお兄様。
今度は自分がここで挙げたいといらしてくださり、
兄弟揃って二葉楼で結婚式を挙げてくださいました。
私にとって鈴木さんは、
右も左も分からなかった私に時に厳しく、
時に優しく教えてくれた尊敬している上司。
そんな師弟関係で結婚式を担当させてもらえることはとても有難く、当日その結婚式に駆けつけてくれた鈴木さんとみんなで撮った写真は宝物です。
《師弟で担当した、ご兄弟のご結婚式》
今思い返すと、鈴木さんはこの時、お客様に誘われてご両家顔合わせの食事会に同席しちゃうなんてこともあったくらい、一組一組のお客様と丁寧に信頼関係を築いていたと思います。
私は、とにかくそんな風にお客様を想う気持ちの強さをこの時期に教えていただきました。
《両家顔合わせの場に呼ばれる鈴木さん》
-描いた夢が現実に。小川町の景色が変わった瞬間。-
山中)―
がむしゃらに進んできた3年間。
その結果どんなことが起きましたか?
阿部)―
2014年、「みんなのウェディング」
という口コミサイトで、
本当に二葉楼が「埼玉県1位」を達成しました。
そして、周囲からはせいぜい年間10件やれるかどうかだろうと思われていた場所で、1年目はその倍の20組、2,3年目には何と本当に50組を担当することが叶いました。
最初は出来っこないと思っていたこと。
それでも、とにかく一組様一組様を大切に想い、
結婚式のお手伝いをさせていただき、
諦めない気持ちをブラさなかった結果、
夢が現実になりました。
実際に、結婚式を挙げたお客様や、
その親御様たちが「二葉楼はとてもいい!」と
周りにおすすめしてくれた影響も大きかったと思います。
それは信じてやってきたことが報われた瞬間でした。
また、その頃にはわざわざ都内から
「二葉楼であげたい」というお客様も来てくれるようになっていました。
都内からは電車で1時間半かかる辺鄙な場所。
廃れて誰も来るはずのなかった街が、
本当に活気を帯びていったんです。
私たちが行ってきたウェディングを通し、小川町の地域再生にも貢献できたことはすごく嬉しかったです。
ポスター貼りなどを通したくさん協力していただいた町の方にも少しは恩返しが出来たのではないかと思う瞬間でした。
《埼玉県No.1の会場が現実になった》
《二葉楼のブライダルフェアで町が賑わうようになった》
-二葉楼での経験が教えてくれたこと。-
山中)―
二葉楼での経験をどのように捉えていますか?
阿部)―
こうしてインタビューにまとめると、
すごいサクセスストーリーに聞こえるかもしれません。
でも、当時は本当にキツい仕事も多く、結果が出ないこともあったり、スタッフ同士でけんかして辞めたいと思ったことも何度もありました。
今もう一度これが出来るか?と言われると、
決してやりたいとは言えないかもしれません(笑)
でも、それだけ夢中になれる仕事をさせてもらえたことは、私の人生の中でかけがえのない財産になっています。
何もないところから知恵を絞って工夫すること。
周囲の人の力を巻き込んで大きな結果を起こすこと。
達成するまで諦めないこと。
悔し涙も、嬉し涙も流し、
色濃く生きた日々は今の私の土台を作ってくれています。
描いた夢を実現させたその後、
経営の資本企業が変わったことを機に
二葉楼の婚礼プロデュースを撤退しました。
そして現在の私はDaiyuの
The KAMAKURA WEDDING部門を担当し、
3つの会場での婚礼プロデュースを行っています。
今、どんな会場だって、どんなお客様だって、
絶対に良い結婚式を創れる!
と自信を持てるのは
間違いなく二葉楼での経験があったからです。
結婚式は会場そのものが持っている魅力も大切。
でも、ハード面や立地にデメリットがあったとしても、
そんなことをも上回るスタッフの想いがあれば、
ちゃんとお客様に届くんだという経験を身をもって感じました。
結婚式という一日を創るのは「人」。
これからも、一緒に結婚式をつくってくれるたくさんの人に感謝し、メンバーを信頼し、良い結婚式を創っていきたいと思います。
《二葉楼のお別れ会に集まってくれたお客様。この経験が阿部の今を作っている》